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明治維新時代

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維新勤王隊列 |
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維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村の有志が山国隊を組織し官軍に加勢しました。そのときの行装にならったものです。「ピーヒャラ、ピッピッピ…」の鼓笛隊が先頭です。
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幕末志士列 |
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桂小五郎・西郷吉之助・坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作・吉村寅太郎・頼三樹三郎・梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰・平野国臣等幕末の知識階級の武士
で、明治維新はこの人たちの大きな働きによって基礎が築かれたのです。このほか、幕末に対抗するため天皇を動かさんとした七人の公卿いわゆる七卿落の列など、当時の公卿達も列に加わります。
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江戸時代

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徳川城使上洛列 |
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徳川幕府は大礼、年始等の際には必ず城使を上洛させ、皇室に対して礼を厚くしました。城使には親藩あるいは譜代の諸候が選ばれました。行列の先頭をゆく、槍持、傘持、鋏箱持の掛声、動作は当時の行列のありさまを偲ばせるものです。
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江戸時代婦人列 |
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和宮(孝明天皇の皇妹)をはじめ蓮月(江戸時代の女流歌人、後年尼となり蓮月と称した人)、中村内臓助妻(京都銀座に巨万の富を有した内臓助の妻、当時妻女の衣装に比べの会で抜群の誉を得た人。)、
お梶
(女流歌人で、祇園に茶店を営んでいた。)、玉瀾(池大雅の妻で、閨秀画家として南画をよくした。)、吉野太夫(寛永の頃、京都六条三筋町の名奴。)、出雲阿国(出雲大社の巫女を名乗って京都で「やや子踊」や「かぶき踊」を演じ歌舞伎の創始者とされる人。)がつづきます。
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安土桃山時代

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豊公参朝列 |
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豊公の参朝のうち慶長元年五月秀頼初参内、同2年9月元服の時などは最も盛んであったと伝えられます。この列はそれをあらわしたものです。
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織田公上洛列 |
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応仁の乱後、京都は衰頽その極に達していましたが、永禄11年織田信長はお召しに応じて兵を率いて上洛し、その復興につくしました。その上洛をあらわしたものです。
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室町時代

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室町幕府執政列 |
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武家風俗を中心とするもので、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿を表現している。足利将軍に幕府の執政にあたる三管領・四職に任ぜられる主要氏族が御供衆として従い、公家、法中、御博士、医師などの特色ある風俗が表現されている。
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室町洛中風俗列 |
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十六世紀、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊りを再現したもの。風流傘を中心に、囃子方、踊り手で構成される。この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出すと共に、江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっている。
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吉野時代

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楠公上洛列 |
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元弘3年、後醍醐天皇が隠岐から還幸された際、楠木正成は一族郎党を率いて鳳輦を兵庫に迎え、先駆として上洛しました。その楠公一代を通じての盛事であった行列です。
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中世婦人列 |
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大原女(洛北大原の婦人は古来薪、炭等を頭にのせ京の町に売りに出る風習があります。これは室町末期の大原女姿です。)
桂女(洛西桂は、古来桂包といって女性が髪を白い布で包み、着物を短く着た装束で、主として桂川の鮎と飴を京の町々に売りに歩いていた。)
淀君(豊太閤の側室で浅井長政の娘)
藤原為家の室(阿仏尼)
静御前(源義経の愛妾で白拍子でした。本列は白拍子時代の姿です。)
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鎌倉時代

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城南やぶさめ列 |
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承久3年、後鳥羽天皇は朝威回復をはかられ、城南離宮での流鏑馬(やぶさめ)に託して近畿十余国の武士を召されました。この列は狩装束の射手の武士を中心とした5組をあらわしています。
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藤原時代

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藤原公卿参朝列 |
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平安中期以降、藤原氏の盛時における文武両様の姿をあらわしたもの。これは夏の様式で文様、形式等いずれも当代のものによっています。
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平安時代婦人列 |
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巴御前(木曾義仲のちょう愛をうけ、義仲没後尼となったと伝えられています。)
横笛(建礼門院の雑仕女で滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼と尋ねて行く姿です。)
常盤御前(源義朝の夫人で、義朝亡き後、三児を連れて六波羅へ名乗り出るところです。)
清少納言と紫式部(式部は藤原宣孝の妻で、源氏物語の作者。清少納言は清原元輔の女で、枕草子の著者。前者は女官の略装であり、後者は正装です。)
紀貫之の娘(貫之は延喜の頃の名歌人でその娘。)
小野小町(小野良貞の女で才色ともすぐれた人。)
和気広虫(和気清麻呂公の姉で、慈悲深く多くの孤児を養育した人。)
百済王明信(右大臣藤原継縄の妻で、百済王敬福の孫、つまり百済氏族です。桓武天皇の御代に女官長として仕え、平安京造営を陰から支えた実力者とされています。
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延暦時代

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延暦武官行進列 |
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本列に大将に当たる者は征夷大将軍坂上田村麻呂を擬したものです。
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延暦文官参朝列 |
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この時代の公卿諸臣の参朝の状景をあらわしたものです。
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神幸列

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神饌講社列 |
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時代祭当日の神饌物を奉献する役目の人達で、御饌長・副御饌長および水干の講員により組織されています。
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前列 |
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神幸列に前行するので前列といわれます。雅楽の伶人、迦陵頻伽、胡蝶など優美な衣裳の列で、多数の狩衣装束(かりぎぬしょうそく)のお供が従います。
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神幸列 |
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御賢木(おんさかき)を先頭に、ご鳳輦(ごほうれん ご祭神の乗る御輿)を中心とした神幸の本列です。
先のご鳳輦が西本殿の孝明天皇、後のご鳳輦が東本殿の桓武天皇で、宮司以下神職が前後につき従ってご神幸されます。つまり、ご祭神が京都の市外をご巡幸になって、市民の安らかな状を親しくご覧になるのが時代祭なのです。各行列はこのご神幸のお供をして行進するわけで、全行列の中心としての意義を持つ列です。
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弓箭組 |
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丹波国南桑田、船井両郡(京都府下)には昔兵庫頭源頼政に従い、弓箭の技に秀でた人達が多く、その子孫の人々もまた弓箭組と云う組織を作り、常日頃より射術を研究していました。延暦の昔、桓武天皇平安遷都の際、その御列の警護に当ったともいわれ、また明治維新の際には山国隊とともに東北鎮護に当ったとも伝えられています。
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