| 当院は別名那須与市さんと呼ばれるように与市ゆかりの寺として有名である。源平盛衰記等でなじみ深く親しまれている那須与市は、いまの栃木県下野の生れ、源義経の命により出陣の途中、都まできた時俄に病にかかり難儀したが、当院の本尊阿弥陀如来の霊験あらたかなるを聞いて参篭し、病気平癒の祈念の結果、忽ち本尊の利益が顕われて平癒した。与市は報恩の為堂宇を再建し、本尊を念持仏として、小像に刻み、甲の中に納め出陣した。特に屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て、竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に、義経は与市に射落することを命じた。与市は馬を海中に乗り入れたが大浪小浪に驚き荒れ狂い、狙いを定めることが出来なかった。そこで一心不乱に本尊阿弥陀如来の冥助を念じたところ利益が顕われ、馬も鎮まり、扇面をめがけて矢を放てば美事その要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。与市はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領、下野守に任官し、御礼言上の為上洛参内した。帰途伏見桃山即成院に参篭、武道を捨て入道し、小庵を結び朝墓信心怠らずお守りした。その後病を得て文治5年8月8日逝去。時に年34才であった。境内の巨大な石造宝塔は与市の墓である。 |